「硬質塩ビ板協会」なる塩ビ製品の加工団体がある。塩ビシート・波板・厚板を生産販売しているメーカーの業界団体である。1989年の秋、私はそこの初代環境委員長に指名された。その翌年の1990年5月には、早速、ヨーロッパにおける塩ビ環境問題の調査団長としてかの地に赴いた。メンバーはたった三人である。当時、日本においては環境問題など殆ど話題にもなっていなかった時代である。ところが、ヨーロッパでは1988〜1989年にかけて、塩ビは、燃焼したときに発生するHClが酸性雨の原因であり、多くの森林が枯れているのは塩ビのせいだとして、社会的に糾弾されていた。更に廃棄物処理問題も大きな社会問題となっていた。このような状況に対処するため、塩ビメーカー各社はそれぞれにいろんなパンフレット類を作成し、懸命に反論に努めていた。廃棄物対策として、フランスでは飲料水用塩ビボトルのリサイクル活動が始められようとしていた。ヨーロッパの塩ビ団体であるECVMが組織されたのもこの頃である。
帰国後、我々業界も何かすべきであるとの判断から、塩ビ板協会は卵パックのリサイクル活動を開始した。1991年初頭のことである。当時、業界団体として都市ごみ系廃棄物のリサイクルに取組んでいたのは発泡スチレンとペットボトルである。従って、我々は3番目ということになる。
活動の手始めとして大手スーパーを訪問した。当時、スーパーでは牛乳パックと発泡スチレントレー(PSP)の店頭回収が行われていた。だから、その横に卵パック用の受入容器も置いてもらえるものと、期待しての訪問である。スーパーの店長、本社環境担当者レベルの反応は好意的なのだが、上層部に持ち上げると尽く否決された。我々はその理由が分からなかった。一年程経った頃、横浜の或る大手スーパーを訪問したとき、先方の担当者は「こうゆうリサイクル活動は必要なんだが、卵パックが塩ビだとバレるのはねー」と口ごもった。これで一年来の疑問が氷解した。皆、塩ビ製品の使用そのものを知られたくなかったのである。何処にも相手にされなかった理由が分かった以上、この活動は続けられないと判断し、開店休業にした。
ところがそれから半年ほど経った頃である。長野のスーパーと岡山の生協が、相次いで卵パックのリサイクルを始めたいと云ってきた。我々が鶏卵業界に手広くチラシを配布していたのが功を奏したのである。早速、二ヶ所でパックの回収を始めた。回収されたパックは路線便で関東と関西の所定のリサイクル業者に送ってもらった。数量は二ヶ所合わせて月に150Kg程度である。これを粉砕し、床タイル等の原料として再利用してもらうのである。こちらは粉砕費込みで40円/Kg程度で売却できたことから、リサイクル業者には迷惑が掛からないで済んだ。ところが店頭からリサイクル業者までの横持ち費用がバカ高いものになった。形状から分かるように空気を運んでいるようなものなので、その運賃はKg当たり250〜300円にもなった。正味200円以上の逆鞘である。
これを何とかするために、岡山の生協では、店頭に我々が自前で制作した減容機を設置した。入口に数枚の卵パック空容器を重ねて入れると、これが押しつぶされて受け籠に落ちるという優れものである。我々は“パックマン”と名付けた。これを導入したことで運賃は150〜200円程度に下がった。しかし、このパックマンにも大きな問題があった。店頭に設置する以上、子供が手を突っ込まないか、入口から金属片を挿入されたらどうしよう、といった安全対策が全部取り入れられた。このため異常が起きると直ちに止まる仕組みにした。ところが実際に使用してみると、パックマンはやたらに止まったのである。これを管理していた生協の作業員は悲鳴を上げた。次は店頭粉砕しかないなと方針転換を検討し始めたが、この頃になって、岡山生協での卵パックリサイクル事業は残念ながら終焉を迎えざるをえなくなった。長野の方は、ペット製卵パックの混入率が徐々に高くなったことから、こちらの方は自然に中止となった。
このように書くと話は簡単だがこの間、4〜5年は経っていた。そして、卵パックリサイクル事業も塩ビ板協会のレベルから、塩ビ業界全体のリサイクル事業に格上げされていた。塩ビレジン業界と加工業会とで「塩ビリサイクル推進協議会」が1991年末に設立されたからである。ここで卵パック・塩ビボトル・塩ビパイプのリサイクル事業が推進された。しかし、これらはあくまでもモデル事業であり、その期間は数年間と決められた。このような塩ビ業界の大方針から、我々の卵パックリサイクル事業もやむなく店仕舞になったという次第である。
今から振り返れば、あの時継続していればの思いは尽きないが、当時の判断が、あらゆる意味での塩ビ業界の実力だったということであろう。なお、最盛期、卵パックは殆どが塩ビ製だったが、今は殆どがペット製に代わってしまっている。
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